今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
先日の安倍さん事件の犯人の
犯行の動機が徐々に明らかに
なりつつあるようですね
日本はカルトに関しては
具体的な統計などは特に見ていませんが
少し特別な地位にある国であるように
感じます
幹部層の多くが死刑になった
例の地下鉄の凶悪事件や
今回の件もそうですが
日本のカルトが起こす事件というのは
世界的な衝撃を与える事件が多いです
で、宗教というものは
私は基本的にはとても
重要なものだと感じています
というか、人間は
宗教があるからこそ
人間であるとも
言えると思います
サピエンス全史という名著を
お読みになった方はご存知だと
思いますが
人間とネアンデルタール人は
知能的にも体格的にも運動能力的にも
ネアンデルタール人の圧勝だったのですが
突然人間に起こった
“認知革命“によって
人間が“虚構の共有“ができるようになる事によって
人間が圧倒的な勝利を収めるようになります
虚構の共有とは例えば
この土地は俺のもの、とか
地球は誰のもの、とか
神様はこうだああだとか
そういう実態から離れた、ストーリー
のようなものを共有して
共通の認識を持つ、ような事です
法律の制定もきっと
これがないとできないだろうし
宗教はその最たるものですね。
それが、ネアンデルタール人は出来なかった
ネアンデルタール人は
虚構の共有ができなかった
これが何に一番大きな影響を
与えるかというと
群れの最大人数が制限されるんです
ネアンデルタール人は
虚構、つまりルールや法律や宗教を
共有することができなかったので
群れの最大人数が数千人を超えなかった
しかし、ホモサピエンスである
私たちは虚構の共有ができるので
数万人、数十万人のコミュニティを
作る事ができた
このことが、ネアンデルタール人を
制圧し、地球上最大の人類になった
理由なんですね
なので、宗教というのもは
私たちが人間である証明の1つ
でもあるのです
で、私も一度とても
“宗教的な団体“に
身を置いていた事がありました
当時のトップの人物に
直接に勧誘を受けたのと
当時の私の友人からの
熱烈なお誘いがあり
当時は私は“弱っていた“ので
(まぁ、離婚やら別居やら色々)
やはりそこで得られるある種の
“所属感“は
心地良いものであった事は
確かです
けど、徐々に違和感を感じ始め
決定的な事件があったので
私は、縁を切る事が叶いました
しかし、今は今で
神社仏閣の古事記や由来の話は
好きですし
古代インド哲学や
キリスト教の聖書の内容などに
感銘を受ける事があります
なので、宗教が全て悪いということは
絶対になくて
宗教が私たちに
示唆してくれるものは
大いにあると感じながらも
じゃあ、何がいけないのか?
カルトの何が悪いのか?
カルトというものは
“人の自由意志を奪う“
という点だけが
カルトをカルトたらしめるものです
常に大小に関わらず
何なら宗教かどうかにも関わらず
何らかの形でカルト的な
様相を呈する人の集まりには
1つの大きな特徴があります
罪悪感を刺激して支配する
という点です
で、これは別に
カルトと信者の関係に留まらず
あらゆる人間関係の中で
個人の破壊をもたらす
危険な考え方です
人は誰しもが
罪悪感を抱いています
それは、エネルギーが弱ったときに
最も刺激される心の働きです
その時に
あなたの先祖が苦しんでいる
あなたのこの出来事は
あなたのこの振る舞いによって引き起こされている
あなたの子育てはああだこうだ
と、巧みに罪悪感を植え付けて
操作するのです
罪悪感とは人間にとって
最も耐え難い感情です
そして、その罪悪感から
逃れるための方法論を
高額で提示するのです
だから信者という漢字は
儲かると読むんですね。
いつも“学び“や
“奉仕“のような言葉で
巧みに支配して
その人の自由意志を奪い続けます
この仕組みが無いそのほかの
全ての宗教は
それぞれに個性的なルールはあれど
それは“よく生きるためにおすすめ“
されていたとしても
罪悪感によっての支配など
あり得ないのです
コミュニティや人間関係の中で
こういった“罪悪感“の刺激によって
操作されるような現象があれば
それはもう立派なカルトだし
人格破壊行為なのです
私が一時期所属していたその組織も
所属している人の全てが
洗脳状態の中にあって
正常な判断能力を失っているように
見えました
私は、成人を迎えた人間には
他人から示唆されるような
魂の学びなんてものの
一切は必要ないと思っています
誰かにOKマークを与えられないと
生きていけないようなことは
あり得ないと確信しています
けど、なぜか日本人には
深い罪悪感がたくさんあって
そこから救われまいと
カルトやカルト的なカリスマに
群がる構造が続いているような
気がしています
で、今回のこの事件を通じて
私が言いたいことは
もう、自分のことは
自分で決めていい
誰に許される必要も
何かに救われる必要も
なくて
その時その時の
自分の本当の心に従って
大切に日々を丁寧に
送っていくことで
全ての人は
自分らしく朗らかに
生きていくことが
出来るのだと感じています
愛を込めて
あなたは大切な大切な
存在なのです。
響月ケシー