皆さまごきげんよう
ケシーです
最先端を生きる愛ある皆さま
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
かつて
フィクションの世界と本当の世界
みたいな考え方を
していた時期があります
けど、最近違うな、って
確信したんです
フィクションは
”本当”を目指した時に
初めて現れる対極理論
幻なんですよ
フィクションは
フィクション単体で
存在できない
本当は、本当単体で
存在できない
本物を目指した時
本当の事を知りたいと思った時
初めて現れる幻が
フィクションです
本当の事が知りたい
というニーズを満たすためには
フィクションが必要です
本物を目指す以上
フィクションを強烈に
映し出す必要がある
フィクションとは
取るに足らない不要な事
重要ではない事
嘘、詐欺、欺瞞
この辺りでしょうかね
こんな事と無縁な人生を
送っていた人も
本物を目指したとたん
共に生きる事になります
今まで何とも思わなかった
世の中の色々な人の
言葉や考え方に対して
普通に付き合えていた
人達に対して
あ、この人は偽物だな
解ってないな
ってジャッジが働きだす
そして孤立して無縁になっていく
とても不自由だな、と
私は思います
これは全てに働く仕組み
救いたいと思えば思うほど
救済を求める人が必要になる
愛されたいと思えば思うほど
愛されない現実を作る必要がある
認められたいと思うほど
認められない現実を作る
それも強烈に。
だから、本物なんて
求める必要が無い
けど1つ大切な問題が
ここにあります
” なぜ、本当を求めたか”
その自問が
そこを感じる事が
あるがままの自分を
受け入れる為に
一番大事なんです
それしか大事じゃないですよ
けどね
どうでも良い事に
こだわりたい時が
私たちにはある
それが
趣味や学問であれば
良いと思うんですよね。
けど、多くの人が
それを他人や自分の価値と
直結させて
他人や世界や自分を
ジャッジし
正当化する材料にする
スピリチュアルや精神世界は
今その過渡期にある
こだわり留まる人達と
こだわりから逃れ
自分の人生に帰っていく人と
自分の人生を
ど真ん中で生きる事に
砂漠の砂粒の数を
把握するようなことは
意味のない事だと
私は思います
全てにおいてそう
本当に大切な事は
永遠に終わらない
自問の中に
全ての答えがあるという事
わたしは
どうなのか
何を感じているのか
何を求めているのか
そして、何を使って
それを満たそうと
して来たのか
私も、欠乏の長い旅を
歩いている最中です
だから、日々
自分の中にある
孤独や、寂しさと
向き合って生きています
今は孤独を引き受けて
ずっと家に居ます。笑
それはそれは
情けないものです
かっこの悪いものです
けど
ここを
ちゃんと見ないまま
手放しなんて無理ですよ
もうそれは手放せた
とかって言ってる人程
絶対信用ならんですもん。笑
手放すなんていうのは
無理なんですよ
人間手放せるものは
もう持ってないです
大抵は解決の瞬間は
気が付いたらどうでもよくなってる
というのが正しいです
逆に言うと
手放しかけた時に
”初めて視える”
というのが
最も近いかもしれません
だから、どこで何をしていたって
良いのかもしれませんね。
いつか、このこだわりも
熟して消えていくだろう
という事だけ
ほのかに感じていればいい。
その
終わりかけた宿題が
あなただけの”本当”を
ある日突然”見せる”
それは大抵恥ずかしくて
カッコ悪くて
多くの辻褄を合わせないものです
けど
そこで有耶無耶にせず
全て受け入れる
ああ、そうなんだ。。
そうやって見てやったら
ポトリと落ちるんですよ。
けど、有耶無耶にする人ばかり
そこを無視して
外の世界にしろくろつけて
フィクション、と
そうでない世界と
”分けて”
もうそれすらも
1つの趣かもしれませんね
それさえもいいかもしれない
けど、本当にそれが
望み?好み?
もし、本当の事が
この世に仮にあるとしたら
この仕組みだけかも
知れません
何かを求めれば
強烈にその
何か”ではない”も作る
という、この仕組みだけが
ある種の
”ほんとう”かもしれません
この”仕組み”には
善悪も上下もありません
ただ、そういう仕組みに
なっている
陰陽の世界
重力と同じ
全員に平等に働いている
仕組みです
だから、あなたが
”これはダメ”で
”これは良い”と
思った瞬間
その良いを求めるために
強烈に同時にその
”ダメ”も内包した
人生を送り始めます
胡蝶の夢
という荘子の話があります
これは
蝶々になった夢を見た人が
私が蝶々の夢を見たのか
この私自体が蝶々の夢なのか
現実が夢なのか
夢が現実なのか
という問いの話です
けど、この話の本質は
”そんな事はどうだっていい”
という事なんです。
~wikipediaより抜粋~
夢か現実かと空想している己自体が
己であることに変わりはなく
どちらが真の世界であるかを
論ずるよりも
いずれをも肯定して受け容れ
それぞれの場で
満足して生きればよいのである。
「夢が現実か、現実が夢なのか?
しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」
と荘子は言っているのだ。
だから、二極化の話ね
書きましたけど
【永久保存版】二極化の本当の話をしよう ①~⑧ 【まとめとお知らせ】
結局
こだわるか
こだわらないか
の二極化なんですよ
こだわる人は
そのこだわる先にある何かの
その対極の望まないものも内包した
人生を送るだけ
本物を望むなら偽物と過ごす人生を
豊かさを望むなら貧しさと過ごす人生を
勝利を望むなら敗北と過ごす人生を
幸せを望むなら不幸と過ごす人生を
けど、私たちは
自分の”こだわり”から
自由のきっかけを
手に入れます
そこに気付くために
自分の”望み”が
なんで、芽生えたんだろう
と、自分を見つめるんです
全てがあなたの人生を
拡大させるためのきっかけだとしたら
なぜあなたがそう感じたのか
それ以外に重要な事はありません
望みというのは
あなたの地面にしか
生えません
その地面こそが
あなたの世界観です
そこにしか答えは無い
けど、それはすぐに
解りようがない
だから、自問し続けるんです
なぜ、私はこれを望んだんだろう
なぜ、私はこれが欲しいんだろう
そして、行きつくものは
必ず愛です
人間は愛によってのみ望み
愛によってのみ拒否します
愛が欲しくて
愛を守りたくて
私たちは全ての事をしています
そして、人間は
愛の生き物です
人間として
産まれた以上
何にもこだわらないのは
無理です
えーせーが
世界一大事な以上
私はえーせーを
失いたくない恐怖と
一緒に生きていく
それは、もう仕方ない事
けど、それを引き受けて
出来るだけ”今”に
愛と感謝を
引き戻す習慣を持って
生きていく
そんな簡単な事だけで
ほとんどすべての事は
完結してしまいます
あとは”知っておく”
だけで良いです
ほのかに、人生の流れる先を
決めておけば
それだけで良いです
いつか熟された
不要な思想は
実のように
落ちていきます
愛は意思です
筋肉と同じで
毎日丁寧に続けるほかに
ありません
極み偏って
何かから逃れるために
うやむやにして生きていく事は
楽な人生です
ただそれだけ
愛か、それ以外か
それだけ
0か1か
やっぱりゼロに戻る
何にもこだわらずに生きる
そうしたら、向こうから
全てがやってくる。
こだわらない事に、こだわる。
こだわってしまう現実にさえも
こだわらない事に、こだわる。
もうとにかく置いとく。笑
全てをあるがままで
受け入れる。
愛をこめて
響月ケシー
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