皆さまごきげんよう
ケシ―です
私には何人か師匠が居ます。
卍易の師匠はいつも
私を励まして、ダメな所も優しく包んで
見守ってくれる、素晴らしい師です。
けど、おそらく
私の事を弟子だと認識しているのは
卍易の師匠だけでw
残りの人達は、私を弟子だなんて
思っていないでしょう。
私が、超勝手に師匠だと思っている人達です。
もちろん、何かを伝授される
直接の師匠もとても大事ですが
人生で何人か出会う
師匠というのは
”自分を良い人間で居させてくれる人たち”
です。
私の師匠達は
私の中にある、本質をまっすぐに
見据えてくれている気がして
背筋を正されるような存在
何を言うでもなく
”無理しなくて大丈夫ですよ”
という安心をもたらしてくれる存在
自分に
良い”在り方”をもたらしてくれる人は
私の師匠です。
人間はいつも
ほとんどオートマティックに
目の前の人や、自分の周りの人の
期待に応えて生きています。
なので極端な話
思考で私たちが”自分”と思う
自分自身というのは
魂の計画が私を使って作る世界の登場人物
その”空間”でただ
いつも演じられているだけなんです。
だから究極
自分なんてないんです。
あるのは
魂があなたを操縦する為に搭載した
心地よいか、心地悪いかの
感情のセンサーだけ。
魂の計画に乗っ取っていると
感情は快を示し
乗っ取っていない時は
感情が不快を示します。
存在するのは
それだけなんですね
こんな経験はありませんか?
同じ悩みを複数の人に相談していても
あの人の前だと、平気ぶってしまう
あの人の前だと、深刻ぶってしまう
更には、あの人の言ってる事に
実際しっくりこないけど
相手の期待している”答え”にはまるように
無意識のうちに
自分を誘導している自分がいたりとか
そうやって私たちは
その世界の役者を
毎日演じている
だから、あなたが心地よく感じる
”良くあらせてくれる”人と
同じ世界の一旦を担えば
あなたは、そのような人として
人生を毎日スタートさせていきます。
本質を探しても探しても
まるで、目覚めて
こっちだよ!と道を示して
自分をたちまち違う世界に連れて行く様な
”自分自身”というのは
自分の中をどれだけ探しても
居ないんです
あるのは
あなたが誰かと作る
世界の一場面だけ
そしてそれを
快と感じるあなたと
不快と感じるあなたが
いるだけ。
そして、快の時間が50%を超えると
人生は開き
快の時間が50%を下回ると
人生は滞る。
それだけですね。
なので、人生の多くの時間を費やす
”付き合う人”というのは
本当に慎重に
選ばなくてはいけません。
一度会うのは良いでしょう
二度、三度と付き合いを重ねるのは
決して惰性で選ばない事
あなたはその相手の世界の
相手役を担うのですから
当然、その世界のエネルギーの期待に
応えていく事になる。
それは流れに逆らうという事です。
不快からは徹底的に
逃げて下さい。
違和感や不快に気が付く方法は
家に帰って、お風呂に入って
ぼーっとしている時に
”また会いたいか?”
と問うだけです。
更には
”もし、今相手と計画している事が
1つ残らず成就しないと解っていたとしても
また、相手に会いに行くか?”
と、こういう事なんですよね。
あなたをあなた足らしめて
尊重してくれる人であれば
誰だって好んで、師匠として
仰ぐと良いと思います。
自分より何かが出来る
優秀だ、金持ちだ
そういう基準で選ぶのではなく
(結果として、そういう人の可能性は高いですけどね)
あなたが一緒に居て
心地よい、誰かである事
無理をしないで良い
誰かである事
そこにいると
あ~良かった。という安心感が
心を包みます。
そこに恐怖や不安はありません
あってはおかしいです。
あなたが、誰かから恐怖や不安を感じるのなら
好んで、離れて下さい。
恐怖の類から学ぶものは
これからの時代
全くなくなってしまいました。
究極
あなたは師匠から
何も得なくて良いのです。
何も教わらなくても良いのです。
そしてあなたも知らないうちに
誰かの師になっているかもしれません。
そして、それは
何も教えなくても、何も与えられなくても
ただ、同じ空間に居て
世界を共有するだけで
強固な”なにか”を残します。
師匠だなんて自意識を持たず
誰かの、問題解決をするのでもなく
この世の悪の原因探しをするのでもなく
ただただ、あなたが
どんどん純粋に広く大きく
身の周りの人を丁寧に愛すれば
必ず、そのあなたの世界の
相手役を買って出てくれる
愛に溢れた人がたくさん押し寄せます。
そうなれば
お金を作る事も
楽しむ事も
楽する事も
何でも、出来ますよね。
そのテーマは何も
世界平和や意識改革でなくて良いのです
折り紙の会でも、フットサルクラブでも
何でも良いです。
そうやって
自分の中の師匠をみつけながら
そして、自分自身も
誰かの魂の”相手役”を
買って出る誰かの師匠であって。
いつも
愛のある存在であるように。
って、きゅうりが言うてた。
うぬ・・獲られて・・たまるか!というなり方。
収穫できないきゅうりさんでした。
きゅうりとの対話は続く。
響月ケシー
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