皆さまごきげんよう
ケシ―です
先日、鞍馬山に行きました。
そこで、魔王様の像の前で
コテンパンに叱られました
その日から
少し、世界が変わった気がします
稼いでいる事
働いている事
これを我々は常々振りかざして
誰かに誇示する事があります
けれども
それはちっとも
優れた事ではないようです
働いている事とか
稼いでいる事とか
何か人より出来る事がある事なんて
全く大した事ではなく
それよりも
大切な誰かに
”ただ、生きていいよ”と
想わせてあげられる事
これはしかも
”お前は生きていても良いけど
あいつは生きていてはいけないのだ”
では、いけない
という事なのです
誰かが生きる事を肯定すると同時に
誰かを否定するあの人が生きる事も
肯定するという事
その目線で世の中が急に見えだすと
誰が本当に
”生きているか”
が、解るようになりました
生きるという事は
誰かに、生きていていいよ、と
いう事
その為に必要な物であれば
喜んで用意しようと
いう事
そして、その陰には
その代り
あいつは生きていてはならない、が
ない、という事
この感覚を渡された時に
私の心の中を
なんとも言えない
”さみしい”が占めました
さみしくて、さみしくて
これはどうにも空っぽの様です
と声をかけると
それで良い、それでこそ
お前の羅針盤である心が
きちんと機能している証拠である
と返されました
どうやら、人生とは
そんな感じなのだそうです。
ってきゅうりが言うてた
響月ケシー
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