皆さまごきげんよう
ケシ―です
仏教の歴史の中で
”悟った”のは
6人だけだそうです。
それは、ブッダと
ブッダと一緒に修行の旅に出かけた
ボディガードの5人
ブッダが悟りを開いて
そして、それを側近の5人に伝えたそこまでが
真実の悟り。
それ以降もブッダは
教えを続けたのですが
それ以降は誰も
悟りに辿り着かなかったそうです。
それはなぜかというと
ブッダが伝えた事は
”あり方”
であるのに対して
受け手はそれを
”方法論”として受け取ったから
です。
こうありなさい、という答えに対して
そうすれば、良いのか、と受け答えると
そのコミュニケーションは
成り立っていないですね。
どうしたら悟りを開けますか?
という問いに対し
”あなたはあなたのままで良い”
という在り方を伝えたとして
財を望む彼は”財を望む事が正解なんだ”と理解し
愛を望む彼女は”愛を望む事が正解なんだ”と理解する
すると彼は
財こそが悟る為に重要なのだと説き
彼女は
愛だけが悟る為に重要なのだと説く
この様にして本質からどんどん離れていく。
そんな
方法論として受け取る誤解が
何千年も経て今でも残っている。
愛を求める事は
とても自然な事です
その為に時に女性達は
自分たちを不自然にゆがめてまでも
愛を追い求めます
その結果というのは
安心と安全と承認なんですよね
その引き換えとして
男性に運を授けようと
”あげまん”を目指す風潮に
私はとても違和感を覚えるんですよね。
あげまんを掴みたい男なんて
愚の骨頂で・・・
あげまんに”なる”という事は
実現しようがなく
仮に”あげまん”という
一般認識の言葉を借りて表現すると
きっと、あげまんと呼ばれるに値する結果を
もたらしている女性達は
とある”あり方”である
という事なんです
なので、その女性のしている行動を
”方法論”とチープにまとめあげて
真似しても
それは、実現されるはずがないんです
そのあり方なのですが
誰だって
さげまん性と、あげまん性との
両方を持っている
誰かを信頼し、見込み、委ねる強さと
孤独を恐れ、執着し、妬む弱さとの
両方を幾分か持ちながら
揺れ続けるという事が
女性性という
不安定性をもふくめた
完全なあり方です
女性は
この陰と陽の両方を携えながら
不完全であり続ける事で
完全な女性性を発揮する
その完全な女性と出会った時
その不完全さを埋めたいと
そして、埋めた時に見られる
完全な”陽”をまた見たいと
そうやって、女性は
女性であり続けられる
そして、そうある為には
女性が自らの強さと弱さとの
どちらをも愛せている事が
結果として男性のみならず
身の周りの人々に
朗らかな万能感をもたらす
そういう仕組みが
世で方法論として歌われている
”あげまん”という在り方の正体だとしたら
”あげまんを目指す”という願望自体
自分の中のさげまん性を
否定しなければ持てるはずがないよね
それは結果として
”女性である”という事から
遠のく事になります。
なので、ちょっと辛口に言うと
あげまんになろう
と謳っているもののほとんどが
自分の中のさげまん性を
憎んでいる女性を対象とした
コンプレックス産業である可能性は高いですし
なんなら、あげまんになろうと
謳っている張本人は
本当にあげまんなのか!?と
私は思います。
なので、あげまんなんて
目指さないでください
あなたはとてもかわいいです
ケシーには
みんなモテそうに見えます。
(ほんとに。笑)
愛される方法論なんて
この世に存在しません。
今現代の社会での
”都合のよい在り方”に
無理やり自分をねじ込む事で
犠牲の上に成り立つ”安定”を
手に入れる事は可能でしょう
けど、それは幸せなの?
本当は、自分を丸ごと愛して欲しくて
心の中で泣いてるんじゃないの?
ケシーは、今”愛”について
とても考えています
ケシーもまたいつか恋に落ちて
誰かとひと時を過ごすかもしれません
(今は恋愛相手はいません)
けど、その時には
私の足りない面も
多い面も
どちらも合わせて
そのケシーという”デザイン”を
好んでくれる人に出会えたら
良いなぁと思います
そして、そう思う為には
”一人でも今、幸せ”
これがとっても重要です。
あなたの中の好きな所と
あなたの中の嫌いな所と
そのどちらかが
表に強く出たり弱く出たり
その繰り返しの中で可憐に揺れる事が
完璧な女性の”在り方”です。
みんな、とっても可愛いです
本当に本当にかわいいです。
響月ケシー
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