今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
最近は私の意識が
すごく浅いところにある
感覚があるんですね
浅い
それは軽率とか程度が低いとか
そういう意味ではなく
表面の意識にすごい近いところに
常時滞在している感覚
沸き起こったものが
ほとんど全部
“よそゆき“の感覚値で
ほぼ自動的に整えられる
多分、日常に疑惑が湧かないんだと思う
それをきっと幸せと呼ぶのだろうなぁと
まずは思うし
メンタルが安定しているのだと思う
安定している私は
つまらない気がどこかしていたけど
そんなわけない
幸せか安定しているかが
私のアウトプットのクオリティには
一切差し支えないに決まっている
けど、そんな当たり前のことが
不安が訪れたら
わからなくなったりもする。
最近はというと
料理欲や創造ニーズが凄くて
よくお菓子づくりをしたり
刺繍をしてみたりしている
そんな時
ふと頭に湧いてくるのが
小さい頃にケーキを作っていた母の姿
キッチンか作業台で
背伸びをして母の手元を覗いて
使い終わったスパチュラの
生クリームなんかを
舐めさせてくれた
そして、次の瞬間には
家族で食べている場面になって
夢のような映像は
いわゆる“愛の象徴“として
頭に残っている
母親のお菓子づくり
は、私にとって
愛の象徴である
と、なったときに私は
“その光景がない人もいるのか“と
思いが至ったりもする
そして、よもや
“かわいそう“だなんて
思ってしまうのだから
非常にタチが悪いと思う
傲慢だ、傲慢すぎる。
きっと、母がお菓子を作らなかった家では
洗い物をしている姿や
仕事から帰ってきた姿や
その他の母親のあらゆる姿から
きっと、それぞれに私たちは
愛を見出していたと思う
それは
“母が私を愛してくれた“
世界線ではなく
“私自身が愛を見出していた“
世界線なのだと気付いて
そしてそれこそが
本当に尊いことなんだと思う
そして、今私の子供たちは
その素晴らしい世界線にいるのだ
自分だけの絶対的な評価で
この世界に光を当てていた
あの頃の私というのは
何て尊いんだろうと思う
そして、もし今
自分自身の絶対的な評価で
何もかもに光を当てれたら
どれだけ素敵だろうとも思う
それがいつの間にか
自分も他人も
相対的に評価して
記憶も何もかも書き換えて
自分は大した存在ではないと
思い込んでしまったりもして
自分自身を
心から愛していない人間は
常に間違った選択をし続ける
間違った人を愛して
間違った行動を起こし
間違った言葉を話す
けど、あの頃の私たちは
みんな正しかった
母という自分の存在理由に
無尽蔵に愛という光を
当て続けていた私たちは
みんなみんな正しかった
あなたも私も
あの人も、その人も
みんなみんな正しかった
そしてその正しさは
いつでも取り戻せる
どんな時でも
いつからでも
毎日に光を当てる自分は
取り戻せる
自分が、そうありたいと
願ったその瞬間から
愛を込めて
私たちは誰1人
一度も間違ったことなど
なかった
響月ケシー
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