今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
最近は児童虐待や愛着障害について
再勉強をしています
過去になんとなく数冊本を読んで
なんだか暴論だなと思ったきり
しばし離れていたので
ちゃんと丁寧に
誰が書いたのかを丁寧に精査して書籍を選定し
情報を整理しています
その中で1つ私の中で
思ったことがあるので
話したいと思います
臨床現場では
実際に本当に
愛着障害と呼べるような
重篤な関係性にある
親子関係というのは
1割程度で
(具体的にはもっと詳細な分類が
あるのですが一旦はこういう風にわけます)
その中でも
関係改善の望みが薄いものは
3割程度程度だそうです
つまり全体からすると3%前後
100人に3人程度です
その中にはもちろん
重篤な虐待行為があったものもあるが
そういう表面化した問題のないものも
実際には多く含まれている
ある意味で被虐待体験というのは
完全なる”悪”を体感している点で
善悪の逆転現象はあれども(これは後日また説明します)
実は生きている生命観は
強まる傾向がある
一方で
この類型が結構多いんじゃないかと
思うんだけれども
そもそもの本質的な交流が
”希薄”であった場合もある
それは言葉ですぐ表現できるような
〇〇された、ネグレクトだった
というような実体はないが
(ある場合もあるが)
子はうっすら
親の世話の向こう側にある
”親は本質的には私に無関心”という
現実に気が付いている
これは、その子の
存在に対する実感を
非常に希薄にする
誰も本質的には自分に関心がないし
どこにも自分を受け入れてくれる場所が
あるわけがない
だって、親ですら
ああだったのだから
と失意の中にある
そんな子たちには
存在するには重大な“ワケ“が必要である
だから、人の役に立たなくてはいけない
だから、自分には価値がなくてはいけない
それを原動力として
大成する場合もあるが
同じ場所に長い期間いると
そこから離れたくなったり
全てリセットしたくなってくる
それはなぜかというと
ただ、彼らは普通に生きている
というだけでも
非常に強い緊張の中にいる
十全な容認を受けた経験の無い魂は
極端な話
“息をしているだけ“で
人から何かを奪っている様に感じ
罪を感じるものだからだ
結果
日常的に
生きていることに対する
漠然とした不安感や
罪の意識があって
人に甘える、依存するなんてできず
強迫観念的な“自律“で
どうにか均衡を保っている
こういう人がいると思う
とても寂しいと思うし
孤独だし
安心や許しを求めて
フラフラと生きている
(立場や環境はしっかりしている人の場合も多い)
けど、私は安心して良いと思っている
それはなぜかというと
つまり9割以上の人は
そういう体験をしていないのである
9割の人は健全な親子関係を結び
十分な関心を親から寄せられ
世界に受け入れられている事を確信し
自分の居場所は常にどこかにあると
知っている
そう、あなたが得られなかったものを
持っている
だから、安心して欲しい
彼らは、つまり
この世の大半の人は
あなたが想像しているより遥か楽に
ストレスなく容易に人を受け入れられるし
耳を傾けることができる
だから
親からは得られなかったが
どこかで誰かが
あなたにそれをもたらす可能性は
十二分にある、という事なのだ
だからあなたしなくてはいけない事は1つ
心を開くことだ。
そのためにはまず
あなたはそれを
親から得ることは出来なかった
と、認めること
それでいい
あなたは悪く無かった
ただ、たまたま
そういう状況の中にあった
あなたは悪くない
そして
けど、自分が得られなかった
十全な容認と許容を体いっぱいで体験して
愛で満ちた誰かが
あなたを受け入れる可能性は
非常に高いし
そして、そういう人が
あなたを誘い込んで共に生活し
何らかの形であなたの心に
“癒しを吹き込む“事で
とても大きな
“生命の重大な実感“を
彼らも得ることになる
だから、あなたはそうある
必要があったし
それが結果的にいずれ誰かの心に
重大な“実感“を
もたらす事になる
だから、心を開いて
あなたはあなたのままで
大丈夫だし
大抵のものは
ちゃんと他の人と同じように
手に入れることができるように
神様は平等に
“仕組みと時間“を提供している
その“仕組み“に関しては
先日発売した書籍
「あなたへ」を
読んでくれると良いと思う
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