今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
どうでもいい話なのですが
私が
あ、この人は人を見る目があるな
って思う人は
“ケシーのことを
繊細で優しいと
気が付いている人“
という明確な基準を設けています
さて、本題ですが
何も“アテ“にしない
ということについて
お話ししたいと思います
基本的に結論から言うと
何かを“アテ“にした段階で
ほんまに終わりなんですよ
もう、それは破壊への道
何も生み出さない時間の
始まりなんですね
それはなぜかというと
自分の運転する車の
ハンドルから手を離すのと
全く同じことだからです
誰か次第、何か次第で
自分の人生が好転したり
不幸になったりする
という“世界観“に
絶対に足を踏み入れては
いけないんですよ
これがあれば幸せになる
という発想の全てを投げ捨て
私がこの世界に
いることが幸せ
という真実に
気がついていく必要がある
だから誰かに対して
“これが無きゃダメ“とか
そういったアドバイスも
全て本質的には的外れで
なんなら生き方とかも
本質的には“全てOK“
なんですよ
この人それぞれだという
圧倒的真実の“聖域“を
守って
で、それから“語る“というのが
これからの時代のスタイル
で、表現方法は
今まさに感じていることを
体現していくほか
ないわけですよね
すると体からちゃんと
沸き起こってくる
“好き“か“嫌い“か
文章だけで論じようとすると
どうしても正解か不正解か
べきか否かで語ってしまう
そうじゃなくて
ちゃんと“見る“
生き様を見る
すると朧げながら
見えてくるものがある
文学的に考えようとせず
ちゃんと“まずこれでいい“と
着地してから
好みだけで生きていけばいい
自分だけがアテになる
そういう時代に
もう“なった“という
そんな確信が訪れました
今日もいい日
響月ケシー
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