皆さまごきげんよう
ケシーです
最先端を生きる愛ある皆さま
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
今、すごい内側から
突き上げるような
”出したい”欲に
駆られていて
綺麗に形を整えて
ノウハウ風に仕上げるのも
伝えようと慮るのも辞めて
いま、出したいものを
出したいから
出させてほしい
小さいころ
とても怖い感覚があった
それは突然やってくる
いきなり、自分の視界が
少し後ろに下がったような
夢を見ている様な心地になって
元に戻らない
その度に、いつも少し
怖くなって
少し、寂しくなって
家族さえも
家族でない様な
どこか他人の様に感じられて
”何かにまみれたいつもの感覚”
にはやく
戻りやしないかと
待ちわびているうちに
眠ってしまい
起きるといつもの通りの
少女Aに
戻っていたのであった
その、夢見心地になっていた時に
もう1つ不思議な事があった
視界いっぱいに
顕微鏡で覗いた細胞の様なものが
うごめいていた
そして、それは
視界から消えたり
また現れたり
今思い出しても
あれはいったいなんだったのか
良く解らないんだけど
やっぱりどう考えても
自分はマジでミラクル
変なやつだったんだと思う
小さいころの記憶は
大体木枯らしの音と
静かな灰色の空と
独りぼっちの光景ばかり
どうにか頑張って
誰かと馴染もうとしていたけれども
大体はうまくいかずに
凄まじくストレスフルな
日々だった
小さいころ
誰か女の子と遊んでいたとき
10秒で3回ぐらい
「怒ってる?」
って聞きすぎて
本当に怒らせた事を
良く覚えている
私には解らなかった
自分以外の子の事が
ほとんど解らなかった
特に会話が難しかった
その会話は人数が増えれば増えるほど
私には耐えがたいものとなる
例えばリンゴの話をしている時
当たり前に”赤いまん丸のリンゴ”について
皆が話して居る事が
凄まじくストレスだった
定義があいまいな言葉で
会話をしている事が
とても嫌だった
気持ちが悪かった
けど、ここで
話をぶった切って
「今はなしてるのは赤い丸いリンゴの事だよね?」
なんて口を開こうものなら
友達が1人もいなくなり
お母さんが心配するであろう事は
容易に予測できた
けど、リンゴが何色であるかに
ほとんど全ての人は興味が無かった事が
私には、とても難しい現実だった
興味が無いっていうか
私にとって凄まじく重要な
そのリンゴが何色なのかを
話し合う隙間というものが
全くなかった
愛すべき他愛もない日常の中に
私にとってはすさまじく重要な
リンゴの色の討論は
完全に埋没していた
彼らにとっては
リンゴが
そこにある事実さえあれば
少なくともその場面においての
全ニーズは満たされている
赤と青の違いに発展しない
しようもない
ただ、リンゴについて語るという
凄くありきたりな
暖かい日常の中に
私のストレスは
気付かれる事もなく
毎日流されていった
この
当時の私から見た
彼らの無頓着さは
完全無罪だ
悪くないし
馬鹿じゃないし
浅くない
ただ、動物園に行けば
ゾウを見るよね
というだけの話で
ただ、水族館に行けば
イルカ、可愛いね
という話で
当たり前という
凄い大きな”何か”に
私の思考のこだわりは
日々敗北していた
他愛もないのは
彼らじゃなくて
私が強烈に
こだわって居ることである事は
ある程度
つまはじきにあい終わった
小学校に上がるころには
完全に把握していた
この、すさまじい
疎外感に対して
私が莫大なエネルギーをかけて
”慣れる”というプロセスを
経たというだけの
はなしである
けど、大人になったら
有り難い事にブログという
プラットフォームができ
リンゴの
赤なのか青なのか論を
垂れ流すという技を
やってのける事が出来る
青だと思う人間と
赤だと思う人間といる
赤だよ、という事にも
青だよ、という事にも意味は無い
けど
リンゴには
赤もあって
青もあるという事を
知っている人間だけが
ある一定の領域に足を踏み込む。
その領域に迷い込むと
急にリンゴが解らなくなる
リンゴの色が、わからなくなる
そうすると
ある程度リンゴは赤だよね
って決めてしまって
その領域には踏み込まない方が
実はちゃんとリンゴと付き合っていけたり
するわけだ
リンゴは、何色だって解ってるから
上手にリンゴの絵が書けるだろうし
リンゴをイメージできるだろうし
リンゴ探しも簡単かもしれない
けど、圧倒的に
青のリンゴを見逃す事にはなる
リンゴが
解らなくなる混沌と
リンゴの色は
赤であると諦める明快さ
この微妙な世界の
細かい分断に
凄まじく神経が持っていかれる
この気難しさと
どうにか上手くやってきてたんだけど
こうやって時にはブログに
結論も無く書いたって
良いじゃないか、なんて
思い立って
とりあえずぶちまけた
夜22:25
リンゴ記念日
響月ケシー
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