今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
アメリカでは
AIパートナーなるものを利用している人が
200万人を超えて
(実際に本当に利用しているかはさておき)
虐待やDVのトラウマを
AIパートナーと乗り越えていく人も
多いのだとか
望む言葉を
ひたすらにかけてもらう事は
それなりに心のリハビリに
貢献するのだそう
私も、辛い時
ぬいぐるみに自分を慰めさせて
メンタルを保つことが
少なからずあった(え)
けど、ふと思ったことが
AIは人の心を傷つけることが
できるのだろうか?
ということ
AIに慰められる事や
癒されることは
できたとしても
私たちは果たして
AIに傷つけられることは
できるんだろうか?
もちろん“不快“にすることは
できるだろう。
けど、いわゆる
急所をつくような
衝撃的な言葉を
AIから得られることが
できるのだろうか?
個人的には
私たちは
“傷つかなくてはいけない“
生き物だと思っている
傷つくということを通じて
自分という存在の輪郭を
捉えていく
というのも私たちの人生は
そういった胸の痛みによって
方向づけされる事が多い
それは、上司や尊敬する人の
アドバイスや一言だったりする場合もあるし
何気ない元恋人の言葉だったりもする
痛みを避けるために
選んだ道だったり
あの痛みは2度と体験したくないと
逃れるための努力だったりが
自分たちを成長させることもある
自分のしたいことをする
自由の方を選択する
ということに関しても
選べなかった時の痛みを
2度と体験したくない、と
ついに選ぶ、という
体験をした人も多いと思う
私たちは
“痛み“を避けるために
成長するということがあるし
私たちは魂に導かれて
“痛み“を羅針盤に進んでいく
ということもある
そしてその痛みは
通常“想定の範囲外“
でないとうまく働かない
ある一定以上の
衝撃が必要になるのだ
と、なると?
AIはどこまで行っても
“予定調和“である
つまり、それを
プログラムする人がいて
その人の上位概念に基づいて
AIは働く
と、なるとAIに
“今の私に必要なメッセージをください“
というプロトコルを
正しく処理できるのだろうか?
という疑問が湧く
けど、その
プログラム外の作動が
偶然に人に働きかけることは
あるだろうと思う
(たまたま拾った手紙に
書いてあった言葉のように)
けど、私たちはやはり
他人の非合理な振る舞いや言葉に
導かれて
自分自身を見つけ磨いていく
それさえも織り込み済みの領域が
AIにもしかしたら
あるのかもしれないけど
それを“入力する誰か“を
必要とする以上は
やはり私たちの想定の範疇を
超えないんじゃないかと思う
不合理で理不尽な
想定の範囲外の
人間の愚かな振る舞いこそが
私たち人間を人間たら占める
魂を魂として動かす
重要な要素なんだと思ったら
やはり、非合理性や
理不尽性自体を憎むのは
全くの徒労で無意味だなと思った
常々、自分がこの人生の大局で
どのように生きていくかだけに
何もかもがかかっているのだと思う
愛を込めて
響月ケシー
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