今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
ルッキズム、という言葉があります
ルッキズムとは、を調べてみると
外見重視主義
主に人間が、視覚により外見で
その価値をつけることそのもの
と、あります。
で、私はルッキズムは
“主義“でも“本能“でもなく
“文化“だと思っていて
どんな見た目が好まれるのかも
時代によって変化していくし
好みもその人その人によって
全然違う
だから、ルッキズムそれはつまり
人が人の見た目を評価する事自体を
完全に無くすことは難しいとは
思っていて
だけども
“好きな見た目の基準を
それぞれが持っていい“
とはなってほしい
つまり
“美しい“は存在するけど
“ブス“は存在しない世界
ブスとか人に言うことが
めちゃくちゃナンセンスな時代
目が大きいとか
顎が小さいとか
そういうのは本当に
限定されたエリアと時代の
一時的なもので
自分が自分に対して抱く
絶対的な美しさとか
自分らしさに対して
もっと社会も個人も
寛容であって欲しいと思う
自然主義も少し違う
その美しさが持ち前のものだって
手を加えて美しくなったものだって
黒くたって白くたって
どっちに対しても
“別にそれも良いね“と
思えないと
健全なルッキズムは
養われていかないと思う
で、“露悪的な“ルッキズムは
大抵の女性に悔しい思いを
させてるものだと思うんですよ
その悲しい経験から
ルッキズムを否定するあまりに
“美しくなりたい“という要求自体も
ついでに否定してしまうことって
無いかな、と思って
けど
“自分基準のルッキズム”は
持っていていいと、私は思うの
むしろ大いに
自分基準に勝手に美しくなろうよ、って
思うの
というのも最近
私が私に対して
綺麗になりたいって思う気持ちを
蓋させていたことに気がついて
どうせ、今更、母親だから
みたいなバカみたい、みたいな
“美の追求“が
知性と対極にある感じ?
けど、それもう辞めたいな
もっと解放したいなって思った。
私にとってそう思えたのは
ハナさんの存在が大きい
ハナさんは私の友人や
知り合いから
ケシーのどこが好きなの?と
聞かれたら必ず一貫して
“顔と体“
と言う。笑
(それが本当かどうかはさておき)
外出してる時も
容子ちゃんより可愛い子
1人も歩いてないな!
とか
今日もいっぱい見られてたな!
などなど
多分、前向きなハナさんの
“俺の女フィルター“のおかげで
どうやらプリウスぐらいの私を
フェラーリぐらいに錯覚して
くれてるんだと思うんです
嘘でもいいから
全男性に推奨します!
パートナーの見た目を褒めるんだ!
世界平和だ!
これがどれだけ満たされて
安心していて
嬉しくてハッピーなことか!
それによって
私の中にあった
“男の人好みの見た目でいなくちゃ“
とか、逆にその対極に振って
“男はいつも女の見た目ばかり!!“
みたいになって
ボーイッシュになりすぎちゃう
そんな思いが
ずいぶん癒されたんです。
だから、自分の見た目を
“人からどうみられるか“
“どう思われるか“基準でしか
考えることができなかったのが
自分が思う美しさを
もっと追いかけてみたい、とか
自分自体をもっと
レベルアップしたい、とか
そういう風に
前向きな“綺麗になりたい“が
養われて
美容に時間も労力も
たっぷりかけてる女性に対して
何も思わなくなったんですね
(そんなんばっかりに
労力もお金もかける女性が
知的でない、みたいな
そんな思いがありました。)
自分が美しくなる事に
労力をかけてもいい
かけなくてもいい
美しくいてもいいし
若作りしてもいいし
年相応に年齢を重ねてもいい
何もかも自分の好きにしていい
と
たった1人の男性に
見た目をしっかりと愛されるという
経験から
その辺りがゴロリと
癒やされたのでした
そのどっちもを
受け入れられることが
一番素晴らしい。
男性に養われてもいいし
自分でも稼げる女性が
一番お金持ってるみたいに
美しさにこだわることも
こだわらないことも
どちらも選べる女性が
一番美しい
けど、他人に対してブスだとか
見た目で卑下するようなことを言う人は
たとえ子供だろうと私は容赦しない
それは、本当に
残酷なことだから
生まれてきたことを
否定するほどの
暴力だから
そこはみんな当たり前に
そのセンスが培われてほしい
愛を込めて
みんな美しくてみんないい
響月ケシー
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