今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
ありがとうございます
ケシーです
実は昨日東京に行ってる間
土曜保育にえーせーを預けていたのですが
急に電話が入り
なになにと思いながら
電話に出ると
「えーせー君がジャングルジムの
一番上から落ちて・・・・」
と
その瞬間
血の気が一気に引いて
頭の中で何かが高速処理
怪我はどの程度?
歩ける?
頭は打った?
後遺症は残るのか
残ったとしても
大丈夫、私は大丈夫
まで心理処理して
打撃に備えたんですね
で
結局奇跡的に“無傷“だったのですが
(帰ってきて本人を確認しても
擦り傷ひとつありませんでした)
念のためレントゲン撮っても
骨にもなんの異常もなく
お昼ご飯を食べて大事をとって
帰宅したらしいです。
実はアガスティアの葉で
えーせーが事故や事件に
巻き込まれるという予言を
受けて
カルマ解消の儀式を先日
行ったのですが
その儀式を行うと
そのカルマが早まったり
とても軽く済んだりする事が
ある様なので
この1件がそれだったらいいな・・なんて
思いながら
本題の件ですが
ブログや色々なコンテンツの
表現方法には
とある手法論がありまして
それは
“過度の一般化“
なんですね
例えば
・母親との関係に全て原因がある
・自分のことを大事にだけすればいい
とか
いわゆる
“これさえあればいい“
本当は人生には
やるべきことがたくさんあるし
当然人生は多面的なもので
あらゆる側面があるのに
“この問題さえ解決すればいい“
とわかりやすく
シンプルに言い切ってしまう
というやり方です
これは
ものすごく大衆を動かす
表現方法です
しかもその原因が
“仮想敵”であると定義してしまえば
より一層その威力は
強まります
例えば
“あなた自身をよく見つけること“
よりも
“母親と徹底的に向き合いましょう“
の方が人を動かす
けど、ここには重大な落とし穴が
あります
それは
その仮想敵に向き合うにしても
何をするにしても
この世界は
それを観測している“主体“となる
目線の考え方や価値観、前提によって
全てが変わる
ということなのです
母親に原因があると考えても良いし
そのために色々向き合っても
良いと思いますが
それは枝葉の話であって
“どの様な気持ちで、心で
向き合っていくのか?“
という超前提を
整えない限りは
混迷の中から抜け出すことは
非常に難しくなり
自分の人生がうまくいかない原因を
自分以外の誰かに向けさせてしまう
あるいは、自分と丁寧に向き合うことから
逸らしてしまう方向だと
信じ込んだ人は大変なことになります
だから、私は
そういう表現はできるだけ
したくないな、と思っています
だから、やっぱりふわっと
してしまうけど
自分の感性と丁寧に向き合って
日々選択をしていくこと
そして自分以外の人には
できうる限りの最大限の
信頼を寄せること
手応えのなさそうな
地味なやり方ですが
確実に、副作用なく
少しずつ人生が良くなっていきます。
愛を込めて
響月ケシー
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