皆さまごきげんよう
ケシーです
最先端を生きる愛ある皆さま
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
あの人は本物
あの人は偽物
あそこは低次元
あそこは高次元
こういう事って
ありますよね
じゃあ、仮に
”本物”と”偽物”というものが
存在しているとしたら
それを”評価・鑑定”する人が
必要になるんだけれど
誰がそれを
正しくジャッジできているのか?
って疑問を
私は
ずっと抱いていて。
じゃあ、厳密にはね
その”本物・偽物”議論が
正しくジャッジされているかを
ジャッジする人も
必要になってくる
けど、正直私は
他人を
本物だ、偽物だ、って言って
くさしたり評価する時点で
偽物だと指さしているその誰かと
同じか、それ以下だと
私はいつも
思うのだけれども
けど
本物か偽物か
って評価の軸と別に
”好き”か”嫌いか”
と
あと
”自分にとってどんな影響があったか”
という
”事実”
は
どんな時でも
あるよね
ここを想ってみて欲しくて。
そしたら
素晴らしく自分に
中心が戻ってくる感覚を
覚えるはず
そうやって
思ったときに
私は
”本物”と”偽物”
”高次元”と”低次元”
って議論って
凄く弱いなぁと
そう思いました。
多くはさ
自分が信じているものが
確かだと
確認したいんだよね
けど、それって軽く(っていうかかなり)
”依存”のはじまりで
なぜなら
”証明”の前提は必ず
”不安”だから
本当の”確信”がある事は
証明も、評価も、位分けも
必要ない
そして、その
何の証明も必要が無い世界を
繋ぐ
強い引力のエネルギーは
やっぱり
喜びと愛だなぁって
思うわけです
だから結論ね
おもろけりゃそれでいいわけ。
おもんなかったらすぐ辞めたらいい。
あなたの確かに感じたこと以外に
”本物”は
存在しないから
だから、安心して♪
愛をこめて
響月ケシー
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