ケシーです
今は、我が家の3Dプリンターの
フォトン1号くんが
久々に超フルマックスで回転しております
デザインをチェックするために
3Dデータを一旦出力するんです
まだ、鋳造する前から
現物確認できるなんて(しかもコストほぼゼロで)
いい時代になったものです
とってもありがたいですね
今日、お皿を洗っていたら
ふと
“神様がいなくても大丈夫“
と思えたのでした
とはいえ
神様はいるのだと
私は思っているのですが
神様がいるという事に
しなくてはいけない人生は
嫌だなと、思ったのです
一時期、ちょっと宗教的なものに
ハマっていた時期がありまして
(寂しかったんですね〜きっと。笑)
痛い思いして
自分の浄化みたいなことを
大金出して
受けてたりしてた時がありました
(ああ、痛かった)
その時は
この世界にはすごい力を持った
“神“がいて
そして、“神に近い人“もいて
その近くにいれば
私はきっと恩恵が受けられる、と
そんなことを思っていて
そして、どこか
みんなを出し抜きたい
誰よりも“知っている“自分に
なりたい
なんて、思って
あの時の私は傲慢だったなって
思いますよ。
批判するわけではなく
それはそこの調和的な1つの世界で
彼らが語ることは
彼らの中での真実なので
それはそれでいいのですが
今は、素直に
私はそれは嫌だな、って
思います
神様がいてくれなきゃ困る
という、人生の捉え方と
神様が本当にいることとは
全く別のことであるように
引き寄せの法則が
働いてくれなくては困る
という人生のあり方と
その構造の確かな存在を感じながら
自分自身を信頼して生きていくことが
全く別なように
その法則や存在に
なくては困る
と思ってしまうのはなぜ?
と、深掘りしてみると
良いかもしれません
とはいえ、この世界は
神様が作ったと
私は思っています
そして不思議な構造が
確かに存在していることも
わかります
けど、神様は
いるとは思うけど
いても、居なくても
どちらでもいいな、って
思います
なぜなら
自分の人生は
自分以外には作っていけない
ということが
実感と確信を持って
理解できるからです
もし、神様がいるとしたら
(というか、いるんですけど)
常に私という存在を
許してくれる
存在であるな、と思います
私が私自身の全人生を
信じられていれば
たとえ、この人生が
全て、物質世界だけだと
誰かに決めつけられたとしても
何も問題はありません
便宜上名前をつけられた
数多くの神様も
私たちの姿を映し出した
この世界のかけらだと
思っています
けど、神社も行きます
お寺も行きます
そこには私自身がいる
それを感じさせてくれる神聖な場所だと
思って、そこに私は行きます
神様は自分の中に
確かにいる
それはこの世界のカケラ全てに
映し出されて
私の前にホログラムのように
時折姿を見せる
それが、この世界の本質だと
私は、思って居ます
響月ケシー
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