今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
自分の無知さや愚鈍なところを
激しく呪っていた時代が
私にはありました
知ったかぶりをしたり
理論武装をしたり
苦し紛れのその場しのぎに必死で
“わかっている私“でいたいと
思いすぎるあまり
痛々しいほどの“無知への恐怖“を
まとい、おかげで誰も私に何も
教えてくれなくなった事がありました
そして挙句たった一人
たくさんの失敗を繰り返して
遂に私は
静かに自らの無知と愚鈍を受け入れて
無知と共に生きていられるように
少しずつ自分を導いていきました
私の人生はとてもとても楽になりました
そして不思議なことに
愚鈍で無知である自分を受け入れて
恐れなく見つめられるようになってから
私が逆に“人より少しわかっている“ことや
“人より勝手に上手に出来ること“が
明確にわかるようになって
それを活かすということが
できるようになりました
そして、自らの無知と愚鈍を受け入れて
誰かの助けを恐れず受け取ると決めた時
私のそばにいる人が
とても力強く頼りになる人として
私を守ってくれるようになりました
どんなことも
問題ではないのです
無知、というのは
何も問題ではありません
細かいことが
不得手であることも
あまり頭が良くないことも
凡ミスが多いことも
忘れっぽいところも
パソコンが弱いことも
何ら問題はありません
重要なことは
自分のそのあるがままの要素と
どう向き合うかということ
最も大事なことは
その自らの強弱に対して
“自覚“があるかどうか、です
“自覚“とは
自分自身について
はっきりと知ること。
それはつまり
自分が目覚めている状態です
逆にいえば
無知とは無自覚な状態そのものを指します。
自分のあらゆる要素について
それは良くないことだと
一方的に自分を責めることも
その要素は何が悪いんだ!と
開き直り周りを慮らないことも
それは、非常に無自覚で
無知であると言えると思います。
自分の理解の解像度が
高ければ高いほど
人生はより自由自在に朗らかに
なっていくのです
大切なことは常に
自らのあるがままを“知る“こと
受け入れるという言葉は少し
愛する、全て許す、癒すという
難しい要素が纏われますが
受け入れるとは単純に
“知るだけでいい“と思えば
とてもとても楽になりました。
自分のことをもっと
知って、受け入れて
自覚的になって
もっともっとたくさんの人に
助けてもらって
生きていけたらな、と
思っています
今日は家族で
三木にピクニックに来ています
愛を込めて
響月ケシー
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