今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
今日瞑想していた時のこと
思ったことがあります
人には“運命“というものがあります
それは運任せの流れのことです
これは全ての人にあります
そして、その運命に
宿る“意味“を宿命と呼びます
何を思い、何を求め
どんな行動を選ぶか
そして、それによって
どんな人生の気づきを得るか
そういうものは
存在していると思います
何やらタイマーのように
仕込まれていて
この時期にカチッと
それをする、そう思う、と
決まっているかのようです
わたしも自分自身の
アガスティアの葉を開いて
まさに、そういうものが
存在しているということは
認めざるを得ませんでした
見知らぬインド人に
自分の両親の名前と
今の完璧な状況を
スラスラと読み上げられた時に
これは受け入れざるを得ないと
観念したのでした
一方で
“自らの力で人生を作っている“
という
自分の中に宿る
明らかなパワーにも
自覚がありました
もしこの、自分で一歩一歩
進んできた歩みさえも
傀儡のように“天“なのか“魂“なのか
よくわからないもので
定められていて
自動的に生きているとしたら
それは何かどこか
ポツネンと寂しい気持ちがしたのです
そうではないよ、と励ます何かを
心の奥底感じたのです
ちゃんと自分で選べているよ
という呼び声が
聞きたかったのです
あくまでもわたしは
人々に宿る“真に自由な可能性“を
見出したいと思っています
あくまでも
“選び取る“ということを
諦めたくないのです
それで1つの思いが
湧き起こってきました
人生は向上するとか
成長するとか
修行するとか
磨いていくとか
高めていくとか
一切そういうモノでは
ないとしたら?
良いものだとか
悪いものだとか
こうだ、と
断定するものは
何もないとしたら?
人を喜ばせる
エンターテイメントでもなく
学び続ける
学業でもなく
豊かさを広げる
商売でもなく
ただただ
“自然としてそこにある“
という事だとしたら?
花がただ咲くように
滝がただ落ちるように
鳥が生まれながらに
羽ばたくことを知っているように
私たちが生きているということは
完全な自然の一部であるとしたら
そして、それは
ただただ美しい、という
それだけだとしたら?
この世界の自然が
理由も意味もなく
何の目的もなく
それでもこの地球が
あらがうことができないほど
あくまでも美しいように
私たちが思い、考え、生きていくことが
それ自体がとても
美しいこの地球の営み
そのものなのだとしたら?
そういう考えが体を突き抜けて
目まぐるしく頭を渦巻いて
ふと
ああ
そうだったら良いなぁ
と、コトンと
何かが腑に落ちたのです
とても背中が
楽になったのです
だとしたら
だとしたら
生前に1枚も満足に
絵を売ることが
できなかったゴッホも
忙しくて
やりたいことなど考える隙間も
なかったけど
彼女たちなりに幸せに
充実して死んでいった女性たちも
家族を守る
国にお役立ちすると
命そのものを燃やして
死んでいった男性たちも
みんながいっぺんに
報われる気がしたのです
全部ちゃんと美しかっただろう。
当たり前ではないか、と。
それぞれの
決めてきたストーリーが
そして最終的に送ってきた人生が
全てちゃんと美しく輝く感じがして
とても心が休まったのです
この世界中の多くの人を思って
“それでいい“と
心から応援できる感覚を
得たのです
だからあらゆる事を
自らの運命の定めだとして
自分自身の人生の
限界値だと嘆く必要は
全くないのです
運命さえも
あなたの素材の一部
ただただ好きように
“ただ在れば良い“
それは自然な事だから
そしてとても
美しい事だから
豊かさを得るためでも
幸福を感じるためでも
誰かに喜ばれるためでもなく
自分好みに好きなように
生きていればいい
この世界には
あなたの“信じるもの“しか
存在していないのだから
私たちには
運命というものが
ありながら
そして同時に
人生はどこまでも
自由だということが
腑に落ちて
とても晴れやかな気持ちだった
芸術家が
あの手この手で
何度もやり直して
集中しながらも
一筆一筆を振り返りながらも
完成させようと思いながらも
完全な完成など
永遠にないことを心のどこか
感じながら
今日は一旦これでよしとしよう、と
毎日筆を置くように
みんな生きてる
そして、その毎日毎日に
感謝して
この世で唯一のあなたの心が
いい気分でいれば
どんな素材でも大丈夫
あなたは望む人生を
笑顔で迎えていく
そしてそれがわかった時に人は
究極の“安心“を得て
運命を超えてゆく
のだと思う
人生は芸術だ。
全ての人が解るものでなくていい
もちろん解りやすいものでもいい
それさえも自由
愛を込めて
響月ケシー
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