今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
委ねる、と言うことを
よく言われますね
最近縁があってサイババの本を
読んでいるのですが
度々出てくる言葉に
“帰依する“
というものがあります
あまり使うことがない言葉で
イメージだけでいうと
“何もかも従う“という
そういう感じかなぁと思っていたのですが
ちゃんと言葉を調べると
すぐれたものを頼みとして
その力にすがること。
なんだそうです。
で、何に帰依するのか、というと
“自分自身の神を信じる心“
に帰依するのです
神を信じる愛の心は
この大宇宙の全てをも包括して
宇宙の力そのものに辿り着きます
そして神とは何か
それは“わたし“である
というのです
心も肉体も何もかも
“わたし“の心だというでしょう
肉体も“わたし“の肉体だというでしょう
その“わたし“は心か?
その“わたし“は脳か?
わたしを見るわたし
それが、神であると
サイババは言っています
“わたし“の心が
なぜ、そのように指し示したのか
“わたし“の体が
なぜ、そのようになったのか
わたしを見るわたし
それが神だと言うのです
その真実の目を養うために
必要なことが
“執着から離れること“
なのだそうです
私たちは常に
この“わたし“のために
働きます
けど、この“わたし“から
出るメッセージを
愛の心の力を失って
限定した人間の働きによって
理解してしまうと
この世界のほんと
一部の力だけで生きていくことになる
そして、それはとても
孤独で淋しいものです。
上手くいくからやる
愛されるならやる
お金になるならやる
それは、限定された
この人間の仕組みの中だけで
決めるものの考え方です
そうではなく
ただ、“わたし“のためにやる
それはつまり
神の為にやる、と言うことです
愛の心で
(それは執着を解き放った心で)
取り組む
それもまずは
“わたしのため“に
です
自分を喜ばせるために
まずはやる。
それは自己中心性の道ではないのです
究極に自分を極めることは
究極に他人を極めることに
他ならないのです
原理原則のすゝめ
もうすぐ締め切りです^^
愛を込めて
PS:近日YouTubeや TIKTOKなどの
動画コンテンツを棚卸します
一時見れなかったり非公開になっている場合が
ございますが、ご容赦ください
響月ケシー
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