今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
思ったんですけど
私はいつも誰かに
こうしてもらいたい
ああしてもらいたい
ばっかり思っていたなって
ふと、感じたんですね
昔、付き合っていた彼が
私との初めての誕生日の時に
東京ディズニーランドに
連れて行ってくれて
そして、ミラコスタだっけ?
忘れたけど
ディズニーの中にある
高級なホテルの
パレードまで
テラスから見られる部屋を
段取りしてくれてたんですね
産まれて初めて
ディズニーに行って
そこまでしてくれたのに
なんと私はですね。笑
夕ご飯を
段取りしてくれてない事に
ブチギレたんですね。笑笑
まぁ、ええやんか。笑
なぁ、そこまでは。笑
いいやんそれぐらいなぁ。笑
って今になったら
普通に思うし
そこまでしてくれた彼の気持ち・・
可哀想に、そこまでしたのに
あの当時の彼。。笑
って思うのです。
今思えば私って本当に
クソみたいにわがままな
女だったな、って
絶望するんですけど、笑
例えば、夕ご飯まで
段取りされてるのが
当たり前で
そうゆうデートしかした事なくて
段取りされてないことに
驚いた、みたいな場合って
まぁあると思うんですけど
けど、普通に考えて
じゃあどうしよっか?って
普通に一緒に夕ご飯考えたり
できると思うんです
けど、なぜか私は相手を
異様に責めたててた。笑
それってやっぱり
ナルシズムなんですよね
相手を愛してるようで
全然愛してなくて
自分の価値を確かめる
道具としか相手を見てなくて
自分を大切にしてくれてた人の愛も
全て取りこぼしてた
で、因果応報のように
その次の恋愛も
その次の次の恋愛も
ましてや最後の結婚も
自分の中の空虚を埋めるために
相手を利用するから
求めて求めて
互いに究極まで枯れていく。
悲惨だったな、って思う。
けど、今はね
成長したし
子供も育ててるしね
“私がどうありたいか“
と、問うことが
できるようになったと思う
もっとこうしてよ
ああしてよ
私を満たしてよ!
ということではなくて
いつも
いつも
私が、どうありたいか
私が、愛したいのか
私が、笑っていたいのか
私が、豊かさを感じていたいのか
私が、喜びを味わいたいのか
私が、相手をどう見つめたいのか
それに、全てがかかってるって
30も後半になって
わかってきた。
自分がしたいことは
自分がしたくてしてるから
それで楽しかったら
それでいい、ってわかってる。
それは、全ての人に対して
パートナーも子供も親も
全部
私がどうありたいのか?
に全てかかってる
だから、私は毎日
愛を選んでいたいし
感謝できる自分でいたい
喜びや豊かさを感じていたい
そのためにはまず
自分一人でも
たった一人でも
ちゃんと幸せでいる事
そして、そんな幸せな
私だから
これからも幸せしか
やってこないってわかってる
恋愛もお金も全て
何もかも
“自分がどうありたいか“
にかかってる
だから、大丈夫
大丈夫、大丈夫♡
愛を込めて
響月ケシー