ケシーです
最近よくね
人に対して“この人まともだな“
みたいな事に気がついたり
することが多いのです
それは、別に誰かを
蔑んでるわけでもなくて
ふとした言動や立ち居振る舞いで
この人は何か
“まとも“と一般的に呼ばれている
潔さを持っているな
と、気付かされるような
そんな感じなんですね
そして、それはどういうところで
香るのかというと
「多少損してでも
ここは無理をすべきところじゃ
ないでしょう」
と
サッと引いた足音が
聞こえる時があるんです
で、ちょっと立ち止まって
考えてみると
私はそういう人を
じっと心の中で尊敬しているんですね
多少意味わからない感じ
するかもしれないんですが
もうちょっと話しますね
で、このまとも感というのを
失わせている根源的なものって
やはり“お金“なんです
さらにいうとお金に付随する
全てのこと
それは
人気、注目
生産性、効率
原価、労働分配率
投資、回収
そういうことで人は常にね
“得“という幻に踊らされて
この“まとも“のオーラが
消えてしまっている
で、その“まとも“のオーラってけど
すごくて
私の心にずっと残るんですよ
恋心とは全く別次元で
あの人は、なんていうだろう?
という様な 1つのアンカーにさえ
なるぐらいの大切なオーラなんです
それっていつ宿るのかな
私も宿らせたいな、とか思うのですが
きっと
お金の正体を突き止めた時に
初めてフワッと宿っていくんだな
って、そう思うんです
それは、お金の持っている
額とかじゃ全然無いです
お金持ってる持ってないなんて
そんなイージーなことで身に纏える
迫力ではないんですよ
今、それなりに
大抵のものは
自分で買える様になって
ふと、ちょっとした
機会があって
エルメスのバーキンを
眺めていたんですよ
(眺めてただけですよ。笑)
エルメスって素敵ですよね
やっぱりその皮の生命感が違う
世界一の皮は
まずエルメスの手に渡るというのも
よく分かる
そして、バーキンともなると
やはり150万円ほどしますから
いろんな大切な場面で人々の手に
渡るんだと思うんですけど
頑張ったご褒美としてのバーキン
謝罪としてのバーキン
取引としてのバーキン
税金対策としてのバーキン
浪費としてのバーキン
憂さ晴らしとしてのバーキン
ってなるとね
私はそのバーキンそのものの
存在の確実なところと
自分自身が調和する
手に入れ方も必要だな、とか
思うわけですよ
いくらお金だけ出して手に入れても
自分自身がその物と調和しないと
その真価はきっと発揮できないんだな
なんて思って
いろいろ見えてくるんです
そして、次にお金そのものの話に
移るのですが
お金ってそういう類の
エネルギーが媒介するものとして
最たるもので
お金って同じ1万円でも
やっぱり全然違うんです
給料
稼いだお金
元夫の養育費
盗んだお金
もらったお金
全部全部
全然違うんですよ
そして、それぞれが
その持つ人、流通した事情の
エネルギーを全てまといます
結局ねその正体というのは
人々の心そのものなんですよね
だから、お金を気持ちよく使いましょうとか
お金をありがたく受け取りましょう
とかいうノウハウが世に現れる
確かにそう
けど、やっぱり
1つ違う次元で
この“お金側“に
自分の主導権は取られない人は
どこか“まとも“の聖なるオーラを
抱いている
お金じゃない!なんて騒ぐのは
もっとも支配されている態度なので
そうではないですよw
お金は大事
だけど、何もかもそれを基準に
決めてしまうと
何か言葉にできない違和感が
体を走るので
私はここまでにしておきますね
という態度が
オーラとか
波動として香るんです
素敵ですよ
街中であっても
山の頂上でお会いしたような
清々しい空気感を纏ってられますよ
香り立つ“自分“という確固たる物
本物、という言葉がよく似合う
(こういう人だけが本物だという話を
しているわけではありませんよ)
何人かこういったオーラを
纏っている人が
頭に浮かんでいますが
大金持ちの人もいますし
そういう豊かさではない人もいます
逆に、どれだけ豊かでも
この一切が香り立つことのない
大変お金を持った方もおられますし
これは多分経験に
裏打ちされる物なのだと思います
そして、素朴に
憧れるのです
私もそうありたい、と
響月ケシー
コメント