今日もそこに居てくれて
とっても嬉しいです
いつも本当にありがとう
ケシーです
少しずつお腹が
でかくなってきまして
座ってるだけで若干苦しい。笑
(3人目なので、でっかくなるの早いです!)
しかもお通じ対策のため
毎日水をたくさん飲むから
さらにポチャポチャでヒーヒー
さて
恋愛やパートナーシップを
うまくいかせるためには?
夫は妻を理解し、協力すべきだ。
新しいドレスや料理を褒めるべきだ。
妻の望みを全て叶えるべきだ。
妻は夫が疲れて不機嫌な時は
それを理解していたわり
そっとしておくべきだ。
夫が仕事で悩んでいる時は
心を込めて聞き、どれだけ無碍に
されても理解しようと努めるべきだ。
などなど言われる。
確かに間違ってはない
けど、結局それは
どれだけ問題がなく見えたとしても
喧嘩がなく平和に見えたとしても
死ぬまで他人のままの関係で
終えることになる。
なぜならそれは
“単なる模範“であるからだ
男の人が女性の好みそうな
デートスポットを検索するのと同じで
所詮、表面的なことに過ぎない。
常に相手の気分を
良くするように努め
礼儀正しく接するだけの
関係にとどまる
それでもちろん
上手くいくだろう。
だって“模範“なのだから
こういった関係は
孤独からの避難所としての愛としては
十分に機能する
本当のあるがままの自分を
受け入れられたいと望む渇望を
誤魔化し
SNSにどれだけ
自分たちの関係が
正当化されるかを
アピールする
病的だが
これが現代の正解であり
皆が目指す正しい恋愛であり
この世の幸せのほとんどである。
“相手を煩わせないこと“
“怒らせないこと“
に全神経を集中させ
相手に自分を
戦略的に愛させようとする
私はこの類のことが
一切できない
一度チャレンジしようとして
頭がおかしくなって
文字通り大暴れして
ゴミ箱を投げて肩を痛めた
それ依頼その一切をやめた
そんなことのために
神経をすり減らすなんて
本当にしょうもないと思った
その代わり私は
相手を愛すると決めた
世の中の成功セオリーとか
愛されるためにすべき事とか
自分の抱えた愛のトラウマとか
拗らせとか
全部無視をして
私には、この人を
愛する力がある
と信じることにした
そしてそれはもう
“変わらない“ことにした
すると、不思議と
相手の私への愛も
変わらないということが
よく理解できて
私は安心した
自分が相手を愛すると
心に決めてから
私の心が安心した
愛されようとしてはいけない
この世には
“愛される“なんて存在しない
愛に関して
人生には2つの選択しかない
愛するか
愛さないか
それだけである
愛されるのは結果であって
目的にはならない
愛されようとしてはいけない
自分が愛するのか
愛さないのか
その2つだけで悩む
そして、愛するには
3つの能力が必要である
1つは
自分が愛すると
決めること
愛されるから
愛するのでもない
愛するに値するから
愛するのでもない
自分が愛したいから愛すると決めて
その自分の意思の表現として
相手を愛することができると
自分自身に満足する事が出来る
それによる愛が
いずれ裏切られたとしても
実らなかったとしても
(そんな愛の姿勢が
蔑ろにされる確率は
すごく少ないが)
例え、相手を失ったとしても
“相手を愛した自分“という
大切な経験を手にいれ
それはあなたに
より多くの愛に溢れた未来を
約束するだろう
そして2つ目が
1人でいられること
である
1人でいられないと
誰も愛する事はできない
なぜなら
孤独からの逃避から
誰かを愛し愛されたいと
望むのならば
それはもはや
相手を愛してる事にはならない
しかもその取引的な愛は
自分自身を歪めることを必須とする
“1人でいられる“とは
映画や趣味や買い物で
自分自身を1人で
満たせるかどうかでもない
真の意味で
“1人でいられるかどうか”は
本も読まず、映画も見ず
スマホも触らず、誰とも関わらずに
ただ幸せに静かに
そこに座っていられるかどうか?
と問われることと似ている
座ってなくてもいい
お皿を洗っていてもいい
お洗濯をしていてもいい
たった1人
何にも誘発される事のない
静寂の中で
幸福を感じられるかどうか
という事は
自分の全人生・存在に対して
肯定できているかを問われている
ごまかしの一切を必要としない
幸福を手に入れた人の
最大の利益は
自分自身に敏感になれるし
同時に“相手にも“敏感になれる
と言うことだ
そして、それは
その次の能力である
相手に集中する
という事にもつながってくる
人を愛するということは
相手を知るという事であり
当然、それは
相手の話を聞くと言う事である
世の中にどんなセオリーや
ルールがあろうとも
自分の耳で心で
相手の声と心に耳を傾けて
自ら知り味わおうとする事である
けれどもこの“相手に集中する“
と言う行為が
1人で過ごすことが
できない人間によって
なされてしまうと
それは結局のところ
・自分にとって有益かどうか
・自分が愛されているかどうか
・自分が大切にされているかどうか
・自分の考えと一致しているかどうか
・自分のことを理解しているかどうか
・自分の思っていることが合っていたかどうか
のジャッジの時間にしかならない
そしてそれは当然
本当の意味で
相手に没頭している事にはなり得ないし
大抵の人はこうやってジャッジした上で
相手の話をろくに聞くことすらせず
自分に都合のいい助言をして
相手の本当の言葉や態度を
無意識に封じてしまう
当然、自分自身の振る舞いに関しても
“愛されるに足る女性として
相応しいかどうか?“
でジャッジし続けるので
本当の心の奥底の愛は
満たされないままである
1人で過ごせる人は
自分が疲れた時も
イライラした時も
腹がたった時も
“自分どうしたの?“と
問うことができる
そして、自分で解決することができる
或いは解決を待つことができる
そうやって自分自身に敏感だからこそ
ありとあらゆる
手近な理屈やルールや人から聞いた話で
相手や自分を安易に合理化しないで
いられる
相手を相手のあるがままとして
受けとめたいと言う望みが
彼・彼女の中にはある
だから、しっかりと相手を受け止めて
“しっかりとそばにいること“が
出来る
誰がそんな愛を
自分自身に向けてくれる人の愛を
拒めると言うのだろうか
そうやって1人で過ごせる人
1人で立っている人の傾聴は
本当に相手の心を開く
そして、例え
どんな他愛のない話をしていたとしても
その時2人がやっていることだけが
本当に重要だと
その場にいる2人が理解する事ができる
何を話しているかは問題じゃない
リラックスした2人であり
同時にお互いに集中した
充実した時間を過ごすことができる
もちろん、私も
愛せる人には程遠い。
けど、理想として
ハナさんに対しても
我が子に対しても
こうありたいな、と
願ってる
自分が愛されることや
自分が受け入れられることや
自分が求められることよりもずっと
自分がこうやって
人を愛していられる自分を
ずっと望んでる
もちろん私も
愛を望んで迷った時代があった
(もちろんハナさんとの間でも)
けど、その時よりも
今こうやって
自分が愛せる人でありたいと
強く望んでからの方が
2人の姿も子供の姿も
よく見えるようになった
愛は能動性であり
“愛そう“と強く望んだ人の
心の中にしか
現れないのだと、思った
私もそうありたい!
できたらそうなりたい!
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本当にありがとうございます!
響月ケシー



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