今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
本物とは何か、みたいなことを
今朝、考えていたんですね。
とりあえず辞書を開いてみると
にせものでない、まさしくその物。
という意味だそうです。
つまり本物を定義するためには
“偽物“を定義する必要がある
偽物とは
・にせもの。似せて作ったもの
言葉による解釈の限界点に
ある言葉のようです
(偽物は偽物、という言葉の限界)
さて
私は心のどこかで
“本物“でありたいと
思っています
例えば、捏造したNO1とか数字で
自分を強く大きく見せる
コンサル実績何万人!
なんとかでお客様の支持1位!
アンケート1位!
とか、それは本当だったらいいのですが
わざわざ打ち出すために
わざわざ作る場合もありますよね
(私も過去コンサルティング会社で
働いていた時にその一端を
担った時期もあります)
けど、私はより売るために
より支持を得るためだけに作られた
“1位“などによって
得られる支持を
欲しいとは思わないんですね
というよりも
それが“正解“だとされる世界が
私にはとても良いとは思えないのです
けど、これってあくまで
私の働き方や生き方の好みであって
本物かどうか、という見地に立つと
ある意味でそうやって
本質的かどうかよりも
“みた人が興味を持つ“
ということにフルコミットして
多少のズルいことも
やってのける“貪欲“さもある意味で本物
と、なると
やっぱり“本物“という
ものすごく客観性のありそうな言葉でも
その本質は非常に
“主観的“なものだということがわかりますね
つまるところ
自分が自分を“本物“だと
自認できるかどうか
そしてさらに
“世の中が本物というかどうかは
全くに気にならない“
ということが
本物という言葉の“本当の機能“として
ある気がするのです
結局
“自分がどうありたいかに素直かどうか“
である事
自分のやりたいようにやっている人は
結果的に全員、本物だと思うのです
だから、やはり
“売る“ことにフルコミットして
犯罪的な虚偽でなければ
厭わない、とやってのける事も
ある意味で“自分の得たいもの“に対して
素直なので、本物だと言えるわけです
フッワフワのスピリチュアルも
本当に本人はそう信じている場合もあるし
人気を得るためにはこれぐらいの演出は
何もやぶさかじゃない、と
割り切っている人もいるかもしれない
その人のやりたいようにやっている
という点においては
やはり本物なのだと思うのです
だから、ある人や物や事が
“本物かどうか“
という事は
あまり意味を持たないし
自分が本物だと思われるかどうかに
こだわることに
特段意味はないのだろうな、と
思うに至ったのです。
(偽ブランド品とか明らかにその
制作プロセスが犯罪的なものは除いて)
本物
それは甘く魅力的な言葉
しかし
“本物“という言葉は
自分が自分を評価する時に
使う言葉として用いる方が
ずっと生きやすくなる
となると
私は
とっても不器用なので
その“自分の考え“から
逸脱したことは
結局せずに済んでいるのかなと思います
そして、全て諦めて
自分自身に降伏した時から
(私はもうこれでいいや。とした時から)
不思議と物事が何もかも
うまくいきだしました。
そして
この降伏した後に
自分自身の一歩を踏みだしていく事は
丁寧な、自己解釈によってしか
築き上げられないのです
そして
自分が納得して
自分なりの本物であり続けると
不思議なことに
“あなたこそは本物だ“と
言い出してくれる人に
囲まれていくものです
その繊細で曖昧で
明確な線で引かれていることはないけれども
確実に存在している
“あなたの中の何か“を
明確に捉えること
捕まえていること
それが人生をより
スムーズに流れるように
進めていくコツだということは
どこか確信しています
原理原則のすゝめでは
その辺りを丁寧に
分かち合いたいと思っています
原理原則のすゝめ
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その後にブログでも残席あれば
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愛を込めて
響月ケシー