今日も生きてる皆様
本日もお読みくださり
本当にありがとうございます
ケシーです
長崎やあんでるせんに行ってきました
ずっと名前は聞いていたのですが
いわゆる、ショーを行う普通の喫茶店です
4時間もの長丁場を
ずっと立ちっぱなしで
見るのですが
時間が経つのは本当に
あっという間でした
で、本当に
学びになったというか
自分にとって
とても驚くべき気付きが
あったので
今日はその話をしたいと思います
マスターが
相談者さんが紙に書いた番号を
当てるという場面があったんですね
で、マスターが度々
虚像を見ない、とか
細胞で見る、とか
そういうことをいうので
私も試しに
これから当てられたお客さんが
言っていく数字を私も
感じてみようと思ったんです
で、頭の中にふわっと
湧いてきた数字をそのまま
採用すると
なんと
4桁中3つ当たった
1発目で
4654ってやつが
順番に
4694
みたいに
当たったんですよね。
で、外したやつは
確かに“どっちにしようかな!“
みたいな思考が挟まった時に
はずれたんです
あ、これが直感というやつか。
と気付いた
私、これ
めちゃくちゃ使ってるわ。
って思ったんですね
特に、鑑定しているときとか
人と話していると
頭の中に湧いてくる
言葉や感情があって
もちろんそれを
口に出す時と出さない時はあって
相談者さんがわかりやすく目の前で
なんでわかるんですか?みたいな事を
言われることって無いんですけど
後々の鑑定の感想で
そういう様なことを
書いたり教えてくださる方が
いるんですね
この
“なんとなく感じる“
って
自分の中の記憶にひっ掛かったものが
沸き起こってくる現象だと
思っていたんです。
つまり
体験がオーバーラップする部分が
フワッと湧いてくる
当然起こることですよね
あー、それ私もわかる。みたいな
私の中に相手が放ったものが
引っかかってる現象だと
思っていたのですが
実は相手から私に
流れ込んできてるものだったのか。
と、すごく腑に落ちた
だから、番号もすんなり
4桁中3桁当たった
彼女の思いが
私に流れ込んできているものを
ちょっと繊細に拾うだけなのか、と。
で、面白いことに
“当てよう“と思ったら
全然かすらなくなるという事もわかった。
というのも
その仮説に基づいた
面白い実験があって
これ、家帰ってから
ハナさんと実験したんですけど
じゃあ、今から思う数字当てて
ってやりあうと
まぁ見事当たらない
そこで色々設定を
変えてみたんです
“当てる“という前提が
多分この現象に干渉するんだと
想定したんですね
つまり“当てる“と強く意識すると
“当たらない“も同時に意識することに
なるので、当たる時もあるし
当たらない時もある
しごく当たり前の結果になる
(いや、むしろ凄いぐらい外れる)
じゃあ、当てるっていう
前提を取っ払ってみよう、とのことで
私が勝手に数字4桁読み上げるから
心の中で勝手に予測してみて
それは、私に言わなくてもいいから
事後報告でいいし
なんとなく試しに。
というやり方でやってみたところ
正当確率が50%を超えてきた
けど、これも回数重ねると
どうしても“証明したい“
“検証したい“という思いが
干渉してきて、外れてくる
つまり、何が言いたいかというと
私たちは
別々の独立した存在で
別々の脳で考えたことを
乱暴に内的に処理してるだけで
その中で取捨選択したものだけを
言葉にすること“だけ“で
コミュニケーションしているのだと
考えているけれども
実は、そもそも言葉になる前から
“とある空中の思考を共有している“
のかもしれない、と思ったんです
もちろん強い方が弱い方に巻き込まれる、とか
前提条件とか、定義されている状況とかに
非常に微細に影響されるのだけれども
確実にそれは起きてる
だから、企業は“ビジョン“が
必要だという話も腑に落ちるし
“誰の前で話すか“で
話し手の話す内容も変わってくる事も
(性格は相手によって引き出される)
という事も当然だな、と腑に落ちたのです。
当然、その状況下の
コミュニケーションで
互いが得る気づきも
大きく変わってくる
で、それは“当てる、当てない“
“霊能力うんぬん“でもなく
ただ自然に起きているということ
なんですね
で、じゃあ霊感は存在しないのか、とか
そういう話になると
確実にあると言えると思います
それは、足の速い遅いのように
絶対音感がある人がいたり
音や言葉が色に見えたり
文字を読むのが早い遅いや
計算の早い遅いのように
その“共有思考“に敏感な人が
中にはいる、というのが
いわゆる霊感とかそういう類なんだと
思ったんです。
で、ここで初めて
自分自身への自覚へと
つながってきたのですが
私はそれが多分強くて。
つまりこの共有思考に気付く力というか
繊細に拾っているその共有思考の
解像度が高いというか
それでなんか自分の中にある
何かが腑に落ちた。
何か、自分でも文学的に説明できない
感性で、何かを受け取っていたものは
こういう事だったのか、と。
ハナさんも私のブログを読んで
いつもいうのですが
“あの出来事で
ここまで深い背景まで
感じてるんだと驚く“
みたいなことを言っている事が多いんですね。
この前とったアンケートでも
“私たちが言葉にできない感じていることを
言葉にしてくれる“
みたいな意見が多く
何でなんだろうなぁと
ふんわり思っていたことの
答えをもらった感覚でした。
で、表現力と言うのものは
訓練で多分どうにでもなるんですよ
画家が本当に画家たる所以は
“観る力だ“
という言葉があるように
インプットのセンサーの方が
実際のアウトプットに必要なんですね。
ここに光が入ってるんだ
ここが暗くなってるんだ
って、普通であれば見落とす濃淡に
気がつくことができるセンサーが
画力の本質だとしたら
私がYouTubeにしても
ブログにしても
人の心の中の濃淡やグラデーションを
細かく拾って言葉にできるのは
個人から流れてくる共有思考や
社会全体に流れているものや
はたまたブログや小説の文章の隙間から
滲み出るものを
キャッチするセンサーが
ちょっと敏感なんだと思ったんですね。
けど、これ不思議なもので
前提や定義を変えると機能しないので
(あくまで私の場合は)
私がこれで
スピリチュアルリーディング
と銘打って仕事にすると
拾える量が落ちるんだと思うんですね
(もちろん落ちない人もいると思う)
だから骨組みのしっかりした
“風水“という土台の上で
補助的に利用するから
ものすごく使えてるのだと思います
あとは、ブログを書くとか
そういう目的があるから
うまく機能しているのかなと思います
“予言する“
とかいうと
多分うまく使えない気がするな。
などなど
たくさんの気付きでした。
ちょっと意識して
全ての人の間に流れる
“思考の空気“の存在を
感じてみて。
私たちは“個“であるよりもっと
“自然“なのかもしれない。
愛を込めて
響月ケシー